私は子どもを出産してから難聴になり、補聴器がなければ生活できない毎日です。
子どもの発達障害は3歳の時に検診でわかりました。
こういう私たち親子が母子家庭になってからの日々で、たくさんのことを子どもから教わって気付かされている毎日なのです。
親子で違う種類の障害だけど気持ちは通じ合っている
私は聴覚、子どもは発達に障害を持っています。
一見すると、障害の種類が違うからちぐはぐな感じもしますが、親子でお互いのことを知るためには必然だったのかもと今では思えるようになりました。
はじめは
「なぜ私だけでなく子どもまで障害を抱えなければいけなかったのかな」
「私に全て責任があったのかな」など、たくさん自分を責めました。
それでも、ひとりになったからには私がこの子を全力で応援していくと決意しました。
その時、子どもも同じように私を応援してくれていることに気づきました。
きっと本人は無意識でしょう。
だけど私には、子どもの一生懸命な姿が強くいて頑張れるパワーなのだと思いました。
だから、親子で気持ちは通じ合っているのだと改めて実感しました。
子どもが見えない形で教えてくれるもの
ADHDの特性から、私の子どもは集中力がある時とない時の差が極端で、おまけに気が散りやすい部分もあります。
なので、毎日生活していく中で当たり前にしなければいけないことも少々他の子よりゆっくりペースでしています。
はじめは、やっぱりイライラとか怒り口調になってしまうことが多かったです。
ただ、ある時気づいたことがあるのです。
私が補聴器を外して無音の中で家事をしていた時、子どもは私が聞こえていないことをわかっていたので、ひらがな表を持ってきました。
そして伝えたい言葉をゆっくり探しながら、一つ一つひらがなを指差して教えてくれたのです。
私は子どもの工夫にびっくりしました。
でもそれから私も子どもに対して工夫する毎日が始まりました。
今では、お互いの障害特性に対していろんな工夫が毎日繰り広げられている我が家になったのです。
ADHDも補聴器もアクセサリーと思っています
アクセサリーって、誰でも一つは持っていると思うのですよ。
私は、障害もある意味アクセサリーなのかなって思うことがあります。
“自分の個性を表現するもの”アクセサリーをつける人は、その綺麗さや可愛さが自分の好きなタイプなら思わず手に取ってしまいますよね。
色や形も理想のものなら、自分の個性をわかりやすく表現できるのがアクセサリーだと私は思っています。
だからそれを障害に当てはめてみました。
子どものADHDは、見た目にはわかりづらくてなかなか理解されにくい部分もあります。
でもアクセサリーとして身につけていれば「自分はこういう人間なのだ」と成長と共に少しずつ受け入れていって、大人になっても悲観することなくいろんな対処ができるのではないかと思いました。
そして、子どもとはちょっと違う意味合いのアクセサリーですが、私の補聴器は、きっと聞こえなくてしょんぼりしていた耳を元気にしてくれるためのものです。
例えば、落ち込んでいる時にプレゼントとしてもらったものが嬉しくて元気が出たような感覚ですね。
こんな風に障害を見ていることも、私たち親子の楽しいところです。
ふたりになった意味を考えてみました
「もし、離婚しないで当時のまま生活をしていたら」
「私もしくは子どもどちらかにだけ障害があったら」
こんなことを考えていた時、支えてくれる周りの友達だったり環境や状況、全てにありがとうの気持ちでいっぱいになりました。
そもそも私と子どもが二人で生活をしていなかったら出会えなかった友達が、男女共に今私たち親子の周りにはたくさんいます。
そして、障害を持っているから…と言ったら変かもしれませんが、子どもも私も支援機関を通して様々な経験や出会い、見つけたことなどがたくさんあります。
やっぱり私は間違えていなかったな、こうなることは必然だったのだなと思えるようになって。 最初の頃に持っていた悲観する気持ちはかなりと言うか、ほぼなくなりました。
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